土地・建物の賃貸業などを行う千島土地は、大阪市住之江区北加賀屋エリアでアートによるまちづくりをけん引してきた。同エリアに約23万㎡の土地を所有し、借地権の解消によって返還された土地や建物を、DIY可賃貸物件として安く貸し出すなど、若手クリエーターの活動拠点をつくってきた。北加賀屋エリアは、150人ほどのクリエーターが活動する、活気溢れるアートの街になった。地主として、まちづくりを行ってきた芝川能一代表取締役名誉会長を取り上げる。
150人のクリエーター集う
造船所跡地を活用 "芸術の実験場"に
北加賀屋エリアの地主である芝川家が率いる千島土地は、大阪市住之江区および大正区に約33万坪を所有している。不動産事業のほかに、航空機のリース事業やスタートアップへの投資を行う。芝川家は、もともと江戸時代に始まった商家で、貿易商として栄えた。明治初期に不動産事業を始め、開発した新田の名前に由来した、千島土地を屋号にしたという。芝川氏は8代目社長を務め、現在は代表取締役名誉会長に就いている。
千島土地は、もともとアートとは関係がない会社だった。同社が北加賀屋エリアで、アートによるまちづくりを始めたきっかけは、1988年に名村造船所に賃貸していた土地が返ってきたことだ。返却当初はプレジャーボートの基地として活用していたが、バブル崩壊以後、需要は少なかった。当時、家業に入っていた芝川氏が、活用方法を探していた時に、アートディレクターの小原啓渡氏と出会った。小原氏は、京都市の三条通りで「三条あかり景色」というイベントをプロデュースしていた人物だ。明かりの少ない土地を求めていた小原氏は、名村造船所跡地がアートプロジェクトを開く土地として気に入ったのだという。暗くて広大であること、何もないことがかえってメリットになった。
小原氏との出会いから半年後に始まったのが、同氏と関西のアート関係者と共に開催した「NAMURA ART MEETING(ナムラアートミーティング:以下、NAM)」だった。
NAMは、2004〜34年までの30年間を一つの時間単位と考え、名村造船所大阪工場跡地を芸術の実験場として再活用しようという試みだ。知識人やアーティストなどを招いたシンポジウム、展覧会、パフォーマンスなどを行っている。重要視しているのは、連続性を持って同じ場所で行うことだ。現在も進行中のプロジェクトで、千島土地は、場所を提供し、北加賀屋エリアでクリエイティブな活動を行うための拠点を運営する一般財団法人おおさか創造千島財団(同)と共に、クリエーターを助成する立場として関わっている。
04年に始まったNAMをきっかけに、05年に名村造船所大阪工場跡地を、展覧会やイベントが開催できる拠点「Creative Center OSAKA(クリエイティブセンター大阪)」に改修。その後、アート活動は北加賀屋エリア全体に広がっていった。09年には、この流れを「KCV(北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ)構想」と名付け、さらに活動を加速させた。
DIY可で賃貸 安価な賃料で
アートによるまちづくりが進んだカギとなったのは、底地だ。借地権が解消し、返還された土地と一緒に建物を引き取るケースが多くあったため、北加賀屋エリアには千島土地所有の空き家が点在していた。それを最低限改修し、アーティストやクリエーターに比較的安価な賃料で貸した。原状回復の義務がないDIY可能物件としたため、借り手は空き家に手を加えながら、それぞれの活動拠点として活用できる。活動拠点として貸し出す物件の数が増え、アトリエ、ギャラリー、シェア農園やショップなど、芸術・文化が集積する「アートの街」として、北加賀屋エリアは再生していった。KCV構想に関わる活動拠点は50件ほどに増えた。
芝川名誉会長は「底地返還時に建物をそのまま引き取るため、次の借り手に安い価格で貸すことができる。貸す相手がアーティストなら自分で建物を修繕し、自分の居心地のいい場所をつくることができる。お互いにリスクが少なく、好きなことができるというのもこの活動を推進できた理由だと思う」と語る。
事業継続のため 挑戦は不可欠
千島土地の設立当初、代々の社長は外部から優秀な人材を招いて経営を行っていた。芝川家の一族は千島土地の株を所有し、資本家として会社に関わってきたという。
6代目社長は芝川氏の伯父。その代からようやく芝川家の人間が社長を担うようになった。会社を伸ばす才を見て、次の経営者を育てて事業承継を行っている。7代目社長は芝川氏の父で、芝川氏も商社での経験や才能を買われて会社を引き継いだ。芝川氏自身は住友商事(東京都千代田区)でビジネスの経験を積んだ後、1980年に千島土地に入社した。伯父や父から教えを受けて社長に就任したのは2005年だった。
「父の代では新たに土地を購入して建物を建てて事業拡大を図った。私の代では航空機のリース事業を本格化し、アートによる街づくりを始めた。私自身、数々の事業に関わってきたが、途中で断念したものも多くある。しかし、後世まで事業を続けていくためにはチャレンジは不可欠。千島土地の特徴は、チャレンジを応援する企業風土があることだと自負している」(芝川氏)
人と出会い、価値観に変化
幼少期の芝川氏は、実はアートに苦手意識を感じる少年だった。小学生の頃は、見学に出向いた美術館で、「こんな丸、誰でも描ける」と感じていたほど。それが、NAMで集った人や作品と触れ合ううち、「ああ、こんな世の中の見え方もあるのだな」と価値観ががらりと変わっていったのだという。アートを起点に人が集まる様子、生まれる縁を目の当たりにして、アートそのものへの評価も変わっていったという。芝川氏自身は、今ではかなりの美術品収集家だ。しかも、若いアーティストの作品を好んで購入することが多い。美術嫌いの少年は、今や若手芸術家を応援する大人になった。
(2024年10月7日7面に掲載)