15億円の負債から家業を再興
インタビュー|2024年10月24日
「KOMEHYO(コメヒョウ)」のロゴが目を引く、高級感あふれる外装2階建てのビル「メイクラッシービル」。同ビルを所有する地主3代目の横山篤司オーナーは、ビル売却の危機を知恵で乗り越え、負債を完済した。街の景観をも左右する地主の立場から、責任と品格を大切にしてきた横山オーナーの挑戦を取り上げる。
テナント企業と組みビル再生
名古屋駅前で商売 地主家系の3代目
入居予定のテナントと事前に契約し、そのテナントに合わせたビルにするための協力資金を得るという方法でビルを建て替え、負債を完済したオーナーがいる。
横山オーナーは、横山家の3代目地主だ。名古屋駅周辺の一角で、旅館運営を開始し、事業を拡大。料亭、ダンスホール事業などの商売をしてきた。
その後、1967年に名古屋駅前の開発に伴い、名古屋市との協業で地上9階、地下3階建ての「菱信ビル」を竣工した。一時期は、100以上ものテナントや名だたる企業のオフィスが軒を連ねるも、平成時代に入り2度の経営危機に瀕する。
バブル期で経営難 勉強会で知識習得
2007年、ビルテナントの家賃がバブル期の2分の1以下に下落。さらに03年ごろから周辺でのビルの供給過多により空室率が上昇。07年当時、空室率が20%を超え、50年超の旧耐震ビルはエレベーターの修繕だけで1億5000万円を必要としていた。「大規模修繕か、解体か」「建て替えか、土地売却か」、会社を清算するのが現実的な選択肢だと思うほど窮地に立たされていた。
当の横山オーナーは大学卒業後、アメリカ・ニューヨーク州で事業を行っていたが、07年に家業の危機を父から伝えられ帰国。モルガン・スタンレー(ニューヨーク州)に勤務する傍ら、家業のビル経営事業に携わるようになった。立地の良さから購入希望者は多かったが、横山オーナーは「再生する」道を選んだ。
そこで頼ったのが、モルガン・スタンレーでの勤務や地元企業との交流で築いた人脈だった。ビル経営のノウハウを語り合う勉強会を月に2回程度開催。この勉強会は14年に不動産オーナー経営学院REIBS(リーブス)となり、横山オーナーが代表を務め、今も多くの経営者の学びの場となっている。
勉強会でアイデアを得て、空室のすべてを貸しスペースに変更。家賃は売り上げに応じた歩合制(60%)とすることで劇的にテナントを呼び込んだ。03年の状況程度まで売り上げを回復させた。
建て替えを選択 建設協力金を活用
さらなる危機は10年。地上1~2階の銀行が退去し、売り上げの約30%が減少してしまう。横山オーナーは空いた地上階を12区画に分け、すべて飲食店に賃貸した。現状貸しのため改装費用は店舗が負担、2年間の定期借家契約で、家賃は売り上げに応じた歩合制とした。こうして生まれた「名駅四丁目酒場メイヨン」は昭和風横丁として愛され、大きな収益を上げた。
事業は順調だったが、横山オーナーはその3年後に解体を決めた。今はもうかっていても、大規模なビルが将来本当に必要なのかという視点からだった。仮に利回り5%なら利益は21年目からしか出ない。経営としてリスキーだと考えた。
そこで、「予約契約」と「建設協力金」によるビルの建て替えを検討。入居予定のテナントとあらかじめ契約し、そのテナントに合わせたビルにするための建設協力金を得るという方法だ。
ビル解体準備と同時に、共にビルを造り上げる企業を探した。結果、ブランドリユース事業を営むコメ兵(愛知県名古屋市)からの建設協力金を建築資金にし、17年にコメ兵をシングルテナントとする2階建てのビルに生まれ変わらせた。
計画は当初の想定通り進み、10年の時点で負債は3億円。それが建て替えで15億円に達するも20年には借入金を完済。家業の再興の後は複数のビルや商業用不動産を取得し、名古屋市を中心とする東海エリアで総合不動産業を展開している。
(2024年10月21日32面に掲載)